Pablo Picasso, パブロ・ピカソ
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スペイン南部のアンダルシア地方のマラガに生まれた。父は美術教師のホセ・ルイス・ブラスコ。母はマリア・ピカソ・ロペス。マラガの習慣に従って長い名前が付けられ、教会の洗礼簿には〈パブロ、ディエーゴ、ホセー、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ・ラ・サンティシマ・トリニダード〉と記されている[1]。 1892年、ラ・コルーニャの美術学校に入学。1895年、バルセロナの美術学校に入学。1897年、父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』がマドリードで開かれた国展で佳作を受賞、マラガの地方展で金賞を受賞。同年秋、マドリードのサン・フェルナンド王立アカデミーに入学。だが、ピカソは宮廷画家を目指すことの無意味さを悟り、中退する。1899年からバルセロナに住み、若い芸術家たちと交わりながら熱心に絵を描く。
1900年にはじめてパリを訪れ、バルセロナとパリを数度行き来する。1904年、詩人のマックス・ジャコブによって〈洗濯船〉と名付けられたモンマルトルの建物に居を構える。
↑ 神吉敬三(編著) 『ピカソ全集1』 講談社、1981年。
作風
ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり、それぞれの時期が「○○の時代」と呼ばれ、親しまれている。主なものはつぎの6つである。
親友カサヘマスの自殺にショックを受け、青く暗い色調で軽業師、アルルカン、売春婦、乞食、芸術家などを描いた「青の時代」(1901-1904)。
フェルナンド・オリヴィエという恋人を得て、明るい色調でサーカスの芸人などを描いた「バラ色の時代」(1904-1907)。
アフリカ彫刻の影響を強く受けた「アフリカ彫刻の時代」(1907-1908)。
ブラックと二人でキュビスムを突き詰めていった「分析的キュビスムの時代」(1909-1912)。
コラージュ技法を発明した「総合的キュビスムの時代」(1912-1918)。
古典的かつ量感のある母子像を描いた「新古典主義の時代」(1918-1925)。
私生活
左から、マニュエル・オリッツ・デ・ザラーテ、アンリ・ピエール・ロシェ(軍服姿)、マリー・ワシリエフ、マックス・ジャコブ、パブロ・ピカソ(1915年)
ピカソは仕事をしているとき以外には、一人でいることができなかった。パリでは、モンマルトルやモンパルナスに住む芸術家の仲間、アンドレ・ブルトン、ギヨーム・アポリネール、ガートルード・スタインらと頻繁に会った。
正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に二回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作った。ピカソがパリに出て最初に付き合ったのはフェルナンド・オリヴィエだった。富と名声を得たピカソは、つぎにエヴァという名前で知られるマルセル・アンベールと付き合った。ピカソは彼女を讃えるために、作品の中に「私はエヴァを愛す」(J' AIME EVA)、「私の素敵な人」(MA JOLIE)などの言葉を書き込んだ。しかし彼女は癌を患い、1915年に亡くなった。
1916年、ピカソはディアギレフ率いるロシアバレエ団の舞台美術を担当した(ジャン・コクトー作『パラード』)。そこでバレリーナのオルガ・コクローヴァと知り合い、1918年に結婚した。オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、ブルジョア趣味を教えた。ふたりのあいだには息子〈パウロ〉が生まれた。ピカソははじめのうちこそ妻に調子を合わせていたが、しだいに生来のボヘミアン気質が顔を出し、衝突が絶えなくなった。
1927年、ピカソは17才のマリー・テレーズ・ワルテルと出合い、密会を始めた。ピカソはオルガと離婚しようとしたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり、中止した。ピカソとオルガの結婚は、1955年にオルガが亡くなるまで続いた。ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘〈マイア〉が生まれた。
またピカソは1936年から1945年まで、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係をもった。彼女はピカソ芸術のよき理解者であり、『ゲルニカ』の制作過程を記録した。
1944年、ピカソは若い画学生、フランソワーズ・ジローと付き合い始めた。そして〈クロード〉と〈パロマ〉が生まれた。しかしフランソワーズはピカソの嗜虐趣味と浮気癖に耐えかね(註・彼女の主張による)、1953年に2人の子をつれてピカソのもとから去った。このことは、ピカソに大きな打撃を与えた。
しかしピカソはすぐにつぎの愛人をみつけた。ジャクリーヌ・ロックという女性で、南仏ヴァロリスの陶器工房で働いていたところをピカソに見そめられた。1961年に結婚する。しかし、これにはピカソのフランソワーズに対する意趣返しという目的が隠されていた。当時フランソワーズはクロードとパロマの認知を得る努力をしていたので、ピカソはフランソワーズに「別の男性との結婚を解消すれば、入籍してあげよう」と誘いかけた。フランソワーズが離婚すると、ピカソはすでにジャクリーヌと結婚していたというわけである。
またこのころピカソは、ジャン・コクトー監督の映画『オルフェの遺言−私に何故と問い給うな−』(1960年)に、彼自身の役でカメオ出演している。
平和主義
ピカソが平和主義者だったのか、それともただの臆病者だったのか、現在でも議論が続いている。第一次世界大戦、スペイン内戦、第二次世界大戦という3つの戦争に、ピカソは積極的に関わらなかった。フランスの二度にわたる対ドイツ戦争では、スペイン人であるピカソは招集されずにすんだ。スペイン内戦では、ピカソはフランコとファシズムに対する怒りを作品で表現したが、スペインに帰国して共和国市民軍に身を投じることはしなかった。ピカソは青年時代にも、カタルーニャの独立運動のメンバーたちとつきあったが、けっきょく運動には参加しなかったという経歴がある。
スペイン内戦中の1937年、バスク地方の小都市ゲルニカがフランコの依頼でドイツ軍に空爆され、多くの死傷者を出した。この事件をきっかけに、ピカソは有名な『ゲルニカ』を制作した。死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったようにいななく馬などが強い印象を与える縦3.5m・横7.8mのモノトーンの大作であり、同年のパリ万国博覧会のスペイン館で公開され、大きな反響をよんだ。
スペイン内戦がフランコのファシスト側の勝利で終わると、ピカソは自ら追放者となって死ぬまでフランコ政権と対立した。『ゲルニカ』は長くアメリカのニューヨーク近代美術館に預けられていたが、スペインの民主化が進んだ1981年、遺族とアメリカ政府の決定により〈スペイン国民〉に返還された。現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている。
1940年にパリがナチス・ドイツに占領されたとき、ピカソはパリにとどまった。ナチスがピカソの絵の公開を禁じたので、ひたすらアトリエで制作し続けた。ナチスは資源不足を理由にブロンズ塑像の制作を禁止したが、地下抵抗組織がひそかにピカソに材料を調達したので、制作を続けることができた。
1944年、ピカソはみずからフランス共産党に入党し、死ぬまで共産党員であり続けた。しかしその間には、友人のアラゴンの依頼で描いた『スターリンの肖像』(1953年)が批判されるなどの多少のトラブルがあった。
晩年
1950年代、ピカソは過去の巨匠の作品をアレンジして新たな作品を描くという仕事を始めた。有名なのは、ベラスケスの『ラス・メニーナス』をもとにした連作である。ほかにもゴヤ、プッサン、マネ、クールベ、ドラクロワで同様の仕事をした。
1955年にはクルーゾー監督の映画、『ミステリアス・ピカソ/天才の秘密』の撮影に協力した。
ピカソの最晩年の作風は、彼がそれまで経てきたスタイルの混合である。ピカソは最後のエネルギーを制作に注入し、より大胆に、カラフルで激しい絵を描いた。
1968年、彼は347点におよぶエロティックな銅版画を制作。多くの批評家がこれを「不能老人のポルノ幻想」、あるいは「時代遅れの画家のとるにたらぬ絵」とみなした。長い間支持者として知られたダグラス・クーパーさえ、「狂った老人の支離滅裂な落書き」と評した。
時間がたってみると、晩年のピカソは、後の新表現主義を先取りしていたことに気づかされる。ピカソは死ぬまで、時代を先取りする画家であり続けたのである。
その後
ピカソは1973年の死の時点で、大量の作品を手元に残していた。またアンリ・マティスらの作品を交換や購入によって相当数持っていた。フランス政府は遺族から相続税としてこれらの作品を受け取り、1985年に国立ピカソ美術館を開館した。一作家の美術館としては世界最大の規模を誇るもので、ピカソの作品だけで油絵251点、彫刻と陶器160点、紙に描かれた作品3000点を所蔵している。2003年にはピカソの遺族が、彼の出身地であるスペインのマラガにピカソ美術館を開館した。
1996年、映画『サバイビング・ピカソ』が公開された。フランソワーズ・ジローとピカソの関係を描いたもので、アンソニー・ホプキンスがピカソを演じた。
2004年、ニューヨークのサザビーズの競売で、ピカソの『パイプを持つ少年』(1905年)が1億416万8000ドル(約118億円)で落札され、絵画取り引きの最高額を更新した(現在はクリムトの『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I』の1億3500万ドル(約156億円)が1位)。2006年5月には、同じくサザビーズの競売で『ドラ・マールの肖像』(1941年)が9521万6000ドル(約108億円)で落札された。
Picasso's work is often categorized into "periods". While the names of many of his later periods are debated, the most commonly accepted periods in his work are:
Blue Period (1901-1904), consisting of somber, blue-tinted paintings influenced by a trip through Spain and the recent death of a friend, often featuring depictions of acrobats, harlequins, prostitutes, beggars and other artists.
Rose Period (1905-1907), characterized by a more cheery style with orange and pink colors, and again featuring many harlequins. He met Fernande Olivier, a model for sculptors and artists, in Paris at this time, and many of these paintings are influenced by his warm relationship with her, in addition to his exposure to French painting.
African-influenced Period (1908-1909), influenced by the two figures on the right in his painting, Les Demoiselles d'Avignon, which were themselves inspired by African artifacts.
Analytic Cubism (1909-1912), a style of painting he developed along with Braque using monochrome brownish colours, where they took apart objects and "analyzed" them in terms of their shapes. Picasso and Braque's paintings at this time are very similar to each other.
Synthetic Cubism (1912-1919), involving the use of collage and cut paper, the first time collage had been used in fine art.
Career
Early life
An 1896 self-portrait by Picasso.
Pablo Ruiz Picasso was born in Malaga, Spain, the first child of Jos Ruiz y Blasco and Maria Picasso y Lopez. His full name is Pablo Diego Jos Santiago Francisco de Paula Juan Nepomuceno Crisp n Crispiniano de los Remedios Cipriano de la Sant sima Trinidad Ruiz Picasso.
Picasso's father was Jos Ruiz y Blasco, a painter whose specialty was the naturalistic depiction of birds, and who for most of his life was also a professor of art at the School of Fine Arts and Crafts and a curator of a local museum. The young Picasso showed a passion and a skill for drawing from an early age; in fact his first words were " 'piz, 'piz," a shortening of the Spanish word for pencil, "lapiz," in order to draw the pigeons he saw outside of his window.[citation needed] It was from his father that Picasso had his first formal academic art training, such as figure drawing and painting in oil. Although Picasso attended art schools throughout his childhood, often those where his father taught, he never finished his college-level course of study at the Academy of Arts (Academia de San Fernando) in Madrid, leaving after less than a year.
The Museu Picasso in Barcelona features many of Picasso's early works, created while he was living in Spain, as well as the extensive collection of Jaime Sabart s, Picasso's close friend from his Barcelona days who, for many years, was Picasso's personal secretary. There are many precise and detailed figure studies done in his youth under his father's tutelage, as well as rarely seen works from his old age that clearly demonstrate Picasso's firm grounding in classical techniques.
Picasso used harlequins in many of his early works, especially in his Blue and Rose Periods. A comedic character usually depicted in checkered patterned clothing, the harlequin became a personal symbol for Picasso. During the 1930s, the minotaur replaced the harlequin as a motif which he used often in his work. His use of the minotaur came partly from his contact with the surrealists, who often used it as their symbol, and appears in Picasso's Guernica.
Pacifism
Picasso's Guernica was painted as a reactionary representation of bombing of Guernica in the Spanish Civil War.
Picasso remained neutral during the Spanish Civil War, World War I and World War II, refusing to fight for any side or country. Picasso never commented on this but encouraged the idea that it was because he was a pacifist. Some of his contemporaries though (including Braque) felt that this neutrality had more to do with cowardice than principle.
As a Spanish citizen living in France, Picasso was under no compulsion to fight against the invading Germans in either world war. In the Spanish Civil War, service for Spaniards living abroad was optional and would have involved a voluntary return to the country to join either side. While Picasso expressed anger and condemnation of Franco and the Fascists through his art he did not take up arms against them.
He also remained aloof from the Catalan independence movement during his youth despite expressing general support and being friendly with activists within it. No political movement seemed to compel his support to any great degree, though he did become a member of the Communist Party.
During the Second World War, Picasso resided in Paris when the Germans occupied the city. The Nazis hated his style of painting, so he was not able to show his works during this time. He retreated into his studio, continuing to paint all the while. While the Germans outlawed bronze casting in Paris, Picasso was still able to continue because of the French resistance who would smuggle bronze to him.
Arguably Picasso's most famous work is his depiction of the German bombing of Guernica, Spain Guernica. This large canvas embodies for many the inhumanity, brutality and hopelessness of war. The act of painting was captured in a series of photographs by Picasso's most famous lover, Dora Maar, a distinguished artist in her own right. Guernica hung in New York's Museum of Modern Art for many years. In 1981 Guernica was returned to Spain and exhibited at the Cas n del Buen Retiro. In 1992 the painting hung in the Madrid's Reina Sofia Museum when it opened.
After the Second World War, Picasso rejoined the French Communist Party, and even attended an international peace conference in Poland. But party criticism of a portrait of Stalin as insufficiently realistic cooled Picasso's interest in Communist politics, though he remained a loyal member of the Communist Party until his death. His beliefs tended towards anarcho-communism.
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