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Above is just a small part of our gift-packed souvenir stamp-collection; inquire by email if the picture or subject of your interest is not here: we will be obliged to accomodate your wishes.
ここに掲載の写真は一部のみです。ご希望のジャンル、絵柄などございましたらお問い合わせください

マヤ文明(まやぶんめい)とは、メキシコ南東部、グアテマラ、ユカタン半島などいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。
大規模な都市遺跡が築かれ始めたのは、形成期後期 (先古典期後期)からで、いわゆる「中部地域」で、現ベリーズのラマナイ(Lamanai)、グアテマラのペテン低地に、エル=ミラドール(El Mirador)、ナクベ(Nakbe)などの大都市遺跡が建設され、繁栄した。古典期(A.D.300〜900)にはティカル(Tikal)、カラクムル(Calakmul)などの大都市国家の君主が「優越王」として群小都市国家を従えて覇権を争った。「優越王」であるティカルとカラクムルの王は、群小都市国家の王の即位を後見したり、後継争いに介入することで勢力を維持した。各都市では、巨大な階段式基壇を伴うピラミッド神殿が築かれ、王朝の歴史を表す石碑(stela)が盛んに刻まれた。
しかし、9世紀頃から中部地域のマヤの諸都市国家は次々と連鎖的に衰退していった。原因は、遺跡の石碑の図像や土器から、メキシコからの侵入者があった、北部地域に交易の利権が移って経済的に干上がった、など有力な説だけでも多数あるが、古典期後期(A.D.600〜900)の終わり頃の人骨に栄養失調の傾向があったことが判明しているため、焼畑(ミルパ)農法や建造物に使用する漆喰を造るために、森林伐採を行い続けたため、地力の減少によって食糧不足や疫病の流行が起こり、それによる支配階層の権威の失墜と、数少ない資源の奪い合いによって戦争が激化したことが共倒れを招き、衰退に拍車をかけたと考えられている。
一方、古典期後期(A.D.600〜900)からユカタン半島北部などを含む「北部地域」でウシュマル(Uxmal)、チチェン=イッツァ(Chichien Itza)などにプウク式(Puuc Style)の壁面装飾が美しい建物が多く築かれた。
標式遺跡は、グアテマラ、ペテン低地に所在するティカルの北方のワシャクトゥン遺跡である。先古典期中期から古典期後期までの時期区分名が用いられる。他の遺跡にも独自の時期区分がありつつも比較検討のためにワシャクトゥンの時期区分名が使用される。ただし、ユカタン半島北部やグアテマラ高地の遺跡には適用されない。
先古典期中期後半(マモム期)、先古典期後期(チカネル期)、古典期前期(ツァコル期)、古典期後期(テペウ期)
後古典期(A.D.900〜1524)には、マヤパン(Mayapan)やコスメル島(Cozmel Island)が、カカオ豆やユカタン半島の塩などの交易で繁栄した。
マヤ文明の特徴としては、
青銅器や鉄器などの金属器をもたなかった
車輪の原理は、土偶などの遺物に出てくるにもかかわらず、実用化しようと考えていなかった、
牛や馬などの家畜を飼育しなかった、
とうもろこしの栽培のほかにラモンの木の実などが主食だった
焼畑(ミルパ)農法のほかには、段々畑で作物をつくり、湿地については、一定の間隔に幅の広い溝を掘り、掘り上げた土を溝の縁に上げその盛り土の部分にカカオなど農作物を植えた。定期的な溝さらえを行うことにより、肥えた水底の土を上げることによって、自然に肥料分の供給をして、栽培される農作物の収量を伸ばすことができた。この湿地利用によく似た農法としてメキシコ中央部にはチナンパという湿地転用農法があるので、その方法を移入した可能性を指摘する研究者もいる。
二十進法を用い、零の概念を発明した。数字は、点(・)を1、横棒(−)を5として表現したり、独特な象形文字で表現された。
マヤ文字や持ち送り式アーチ工法など高度な建築技術、暦などを持っており、火星や金星の軌道も計算していた。
などがある。
政治的には、統一国家を樹立することなく、各地の都市国家が合従連衡と興亡を繰り返し、16世紀、スペイン人の侵入を迎えた。1697年最も遅くまで自立を保っていたタヤサルが陥落、マヤ圏全域がスペイン領に併合された。

アステカ(帝国、王国、文明、人、族)
1325年から1521年まで中米メキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明。 またの名をメシカという。言語はナワトル語。はじめアステカ族はメキシコ中央高原を移動していたが、テスココ湖の島に定着して首都テノチティトランを築いた。アステカは軍事に優れ周辺諸国を征服して貢物を受け勢力を拡大し、最盛期の領域は現在のメキシコシティ周辺から太平洋沿岸までに達した。

Tenochtitla´n -- 島にアステカの町、現在メキシコシティになった
アステカ文明は、オルメカ文明・テオティワカン文明・トルテカ文明を継承しマヤ文明の影響を受けていた。製陶・土木・建築・工芸に優れ、精密な天体観測で正確な暦を使用していた。チナンパ農法が営まれ主食であるとうもろこしをはじめ芋や豆を栽培した。リュウゼツランを原料にプルケという酒を醸造した。
宗教は多神教で、生きた人間の心臓を神に捧げる儀式が盛んに行われた。この儀式は中米の諸文明に普遍的に見られた終末信仰に基づく。太陽は神々の力によって運行されているのであり、人間の心臓を神に捧げなければ太陽は滅んでしまうと人々を脅した。この信仰のため多くの人間が生きたまま心臓を摘出された。アステカは多くの生贄を確保するための戦争さえも行なった。だがスペイン人により残酷な生け贄の儀式が取りやめざるを得なくなっても、太陽は昇ってきたことにより神官たちの言っていたことが嘘出任せであったことが人々に分かってしまい、神官の権威が失墜した。現在では人間の生け贄をささげる宗教儀式は行われていないと考えられる。
王の下に貴族・神官が置かれ神権政治が行われた。神官は生贄の儀式を取仕切り国政の重責を担った。国の功労者は貴族に取立てられ、戦争の功労者は豹の戦士(またはジャガーの戦士)や鷲の戦士と称され人々の尊敬を得た。
1517年にスペイン人コンキスタドールエルナン・コルテスが、エル・ドラドを求めて500人の部下を率いてユカタン半島に上陸する。コルテスはアステカに帰還した善神ケツァルコアトルと見間違われる幸運にも恵まれ、1519年にテノチティトラン入城を果たした。その後コルテスは、トラスカラ王国などと連合して1521年までにアステカを滅ぼした。首都テノチティトランの跡地にメキシコシティが建設され、植民地ヌエバ・エスパーニャの首都になり、現在に至る。現在は湖の水は干上がっている。


The above explanation comes from 出典: フリー百科事典"ウィキペディア"

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