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商品コード: K-vinc-004 - 切手レオナルドウダビンチ Leonardo da Vinci 完全セット/様々な大ぞろいのセットシート ー 小売価格 ¥800
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k_vinc_004; Leonardo da Vinci, レオナルド  ヴィンチ, complete set, セット



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レオナルドはイタリアのヴィンチ村で生まれた。 ヴィンチ家は13世紀より続くヴィンチ村では名の通った血筋で、父セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ (Ser Piero da Vinci) も公証人として裕福な家であった。母カテリーナ (Caterina) は農民あるいは木こりの娘といわれ、詳細は分かっていないがヴィンチ家に頻繁に出入りしていたとされる。父とカテリーナに婚姻関係は無い。しかし、その名前と、祖父アントーニオの日記に生まれた様子が詳細に記載されていることから、私生児とはいえ彼が望まれざる子供であった可能性は低い。カテリーナはレオナルド出産の数ヵ月後にアントーニオ・ディ・ピエーロ・デル・ヴァッカ・ダ・ヴィンチに嫁いでいる。父セル・ピエロも同時期にフィレンツェ出身のアルビエーラと結婚した。
彼のフルネームはLeonardo di Ser Piero da Vinci(ヴィンチ家出身でセル・ピエロの息子のレオナルド) である。ダ・ヴィンチという部位はむしろ出身地よりもヴィンチ家出身を意味する。尚、レオナルドは彼の作品に「Leonardos」または「Io, Leonardo」とサインしている。専門家も彼の作品を「da Vincis」ではなく「Leonardos」と表記する。ヴィンチ(Vinci)はイ草(Vinchi)に由来しレオナルドもそのモチーフを作中に取り入れている。
幼少期の彼は、原因は不明だが正当な教育を受けていなかった。又、当時から左手で鏡文字を書いていたといわれている。これは同時に彼が読み書きの教育を受けていなかった理由ともされている。当時は自由奔放な性格をしていたとされる叔父の影響が彼に影響を与えたと、しばしば指摘される。彼の文字の癖は、父の仕事である公証人を受け継ぐことに大きな障害となった。この時代からの年齢は確証に欠けるが、レオナルドは14から16歳でフィレンツェでに移ったとされ、画家見習いとしてアンドレア・デル・ヴェロッキオに師事する。このときレオナルドはヴェロッキオのもとでボッティチェッリらと学ぶ。この工房でヴェロッキオの絵画のキリストの洗礼の一部を描いており、これは師匠であるヴェロッキオを驚愕させるものでヴェロッキオは以後いっさい筆をもたなかったという逸話もある。レオナルドに嫉妬したという説もあるが、むしろ工房の絵画部門は彼に安心して任せて自分は本業である彫刻に専念した、というのが真相らしい。 1472年(二十歳)にフィレンツェで画家組合「サン・ルーカ同心会」に登録されている。
フィレンツェ時代の1476年、当時有名な男娼だった17歳のヤコポ・サルタレリ (Jacopo Saltarelli) にモデルとして連絡を取ったことで同性愛者として匿名で告発されている。他の3人の若い男性とともに同性愛者として容疑がかけられたが、証拠不十分で放免されている。しかし以後、レオナルドと3人の男性はフィレンツェの "夜の士官"(ルネサンス期の風紀取締り役のようなもの)から監視を受ける。 レオナルドの伝記を書いたロバート・ペインは、レオナルドが男性女性を同様に愛することができたと確信していたようである(娼婦との付き合いも彼のメモに残されている)。彼のノートの一部分を抜粋して彼の性的嗜好を断ずるのは容易いが、現時点で確たる結論は出ていない。 当時は若者の間で同性愛が非常に進んだ考え方とされており、さほどレオナルドが特異な性的嗜好であったとは言いにくい。だが時代がたつにつれ、彼の知名度と、そのスキャンダラス性を演出する知識として、そういった時代背景を無視して盛んに語られることとなった。特に日本において、レオナルドは天才の代名詞として語られる一方で、その芸術については殆ど語られることが無いため、その傾向が顕著である。
1482年から1499年の間ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)に仕えながら自らの工房を開いた。レオナルドは巨大なスフォルツァ騎馬像の制作を依頼され、構想を練っていたが、騎馬像のため用意された17トンの銅は、1495年、シャルル8世率いるフランスに対抗するため、大砲の製造に転用されてしまった。 そして画家の仕事をするとともにサライ(本名ジャコモ)という非常に美しい少年を引き取る。サライには盗み癖があったが、レオナルドはサライ(=子悪魔)という意味をつけてかわいがったという。
1499年10月にルイ12世率いるフランス軍が侵攻すると、イル・モーロが逃走し、ミラノは戦わずに陥落する。そのときレオナルドは残ったが、フランス軍の射手が騎馬像の粘土原型を練習の的にしているのを知り、ミラノを離れる。弟子のサライ (Salai) 及び、友人のルカ・パチョーリとともに1500年にマントヴァへ行き、2か月後にはヴェネツィアへと移る。さらに同年暮れには再びフィレンツェに戻った。

自画像 ca. 1513
1502年8月以降、教皇軍総指揮官チェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンデル6世の庶子)の元で軍事顧問兼技術者として働く。チェーザレの元にいたのは8か月程で、フィレンツェに戻っている。ここでアルノ川水路変更計画や、ヴェッキオ宮壁画(後出)などの仕事に従う。
1506年にスイスの傭兵がフランス軍を追い払った後、マクシミリアン・スフォルツァが治めていたミラノに戻る。そこで後に親しくなって死ぬまでの友人、彼の後継者となるフランチェスコ・メルツィに出会う。
1513年と1516年にはローマに住んでいた。当時ローマではラファエロやミケランジェロが活動していた。ラファエロはレオナルドの絵を模写し、影響を受けているが、ミケランジェロとの接触はほとんどなかったようである。
1515年、フランス王フランソワ1世が即位すると再びミラノを占領する。その際ボローニャで行なわれたフランス王とローマ教皇レオ10世の和平交渉の結決役に任命され、(おそらくこのとき初めて)フランソワ1世に出会う。1516年にはフランソワ1世の保護を受け、アンボワーズ城近くにあるクルーの館と年金を与えられて余生を過ごす。
レオナルドは1519年5月2日にフランスのクルーで亡くなった。彼の希望により60人の乞食とともに棺に入れられた。彼はアンボワーズにある聖フロランタン教会に埋葬されたが、その後、墓が暴かれてしまい、遺骨の行方はわかっていない。
レオナルドは生涯女性と親しい関係になることはなく、独身だった。
レオナルドには多数の友人がいた。一例を挙げてみる。
ファッジョ・カルダーノ - ジェロラモ・カルダーノの父親の数学者、法学者
フランチェスコ・メディチ - 画家で教え子
ジェラルモ・メディチ - ミラノ軍の大佐
ジョバンニ・フランチェスコ・ラスティシ
チェーザレ・ボルジア - 軍人
ニッコロ・マキャヴェッリ - 作家
アンドレア・ダ・フェッラーラ
フランチェスコ・ナーニ
ルカ・パチョーリ - 数学者